香川大学医学部 耳鼻咽喉科・頭頸部外科

キャリアサポート

キャリア形成体験談

印藤 加奈子

1〜2年目:大学病院
卒業後2年間を大学病院で研修しました。外来業務、病棟業務に関わり耳鼻科医としての基礎知識と基本技術の習得を目的とした研修をします。耳鼻科は他科よりも早期に手術の執刀させてもらうことができ、口蓋扁桃摘出術や鼓膜チューブ留置術などの執刀経験を積んでいきます。地方大学の優位な点として耳科分野、鼻科分野、頭頸部腫瘍分野、音声嚥下分野などの各専門領域の専門医が集まっており、幅広い研修ができたと思います。
3〜4年目:さぬき市民病院
地域医療に根ざした病院で日々の外来診療をすることで一般的な疾患、また患者様と向き合う事ができました。1人常勤であったこともありプレッシャーもありましたが自身の診療に責任をもつこと、重症度のトリアージ等も経験を積む事ができました。1人で対応できる手術は自身で施行し、複数人必要な手術は大学より助っ人に来てもらうバックアップ体制もあり、継続して頭頸部の手術をすることも可能でした。
5〜6年目:大学病院
それぞれの専門領域での研修は、右も左もわからない卒後研修時とは異なり、専門性をもった医師からの臨床に即した知識や技術は、現在の診療するに際しても貴重な知識や経験となっています。また、執刀できる手術が増えることで自身のステップアップを実感できます。これは、耳鼻咽喉科・頭頸部外科の大きな魅力といえます。
6年目には専門医試験の受験資格を得て、習得することができました。香川大学耳鼻咽喉科の専門医合格率は100%です。
指導医が音声嚥下領域であったこともあり、自然と(作戦だったのでしょうか?)専門領域を音声嚥下と決めました。
7〜9年目:高松赤十字病院
ちょうど同時期の院長が耳鼻科医で音声専門であったこと、部長が嚥下専門であったこともあり、専門的な疾患に対する診断治療も継続して経験を積むことができました。また、院長が京都大学、部長や医員は愛媛大学、私が香川大学でしたが、口蓋扁桃の手術一つにもそれぞれ手術の手技は異なり工夫がみられ、疾患の治療方針についてもディスカッションできるなど貴重な経験をつめる職場でした。
10年目〜:大学病院
以後大学病院での勤務となっています。音声嚥下外来を後藤医師とともに継続しています。ただ、専門外来で診療するにあたり、嚥下障害に関しては地方においても多数症例があり治療対象となりますが、音声障害の症例はどうしても地方では限界があると感じていたとき、前教授の口添えもあり国際医療福祉大学東京ボイスセンターで9ヶ月間研修をさせていただくことができました。日々音声障害の疾患に関わり、疾患についての理解を深める事、専門外来での診断治療につて学び、音声改善手術などの手術経験も積む事ができました。この経験は自身の大きなキャリアアップとなったと感じています。

現在、大学では学生や研修医の教育や指導に関わる立場になりました。香川大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科医局は、現教授のもと、どうすればより良い教育ができるのか、実のある研修ができるのかを考えて実践している医局だと感じています。耳鼻咽喉科・頭頸部外科は、診療領域や働き方の選択肢が多く、好きな分野自身がのめりこめる領域が必ずあります。開業や勤務医、教育職など仕事のスタイルも選択できます。ぜひ、一緒に香川の耳鼻咽喉科を支えて行きましょう。

秋山 貢佐

私は平成14年に香川医科大学を卒業し、耳鼻咽喉科に入局しました。入局するまではお金もなく、友達も彼女もおらず、とりえもなく負け犬人生でしたが、耳鼻科に入局してからは人生が一変しました。そんな私のこれまでの経歴ですが、入局後2年間は大学病院で勤務、初期研修システムの走りのころであり、その間半年ほどは麻酔科・救急科への出向もありました。その頃は他科での研修はすごく勉強になったと思っていましたが、今になれば嫁がみつかったこと以外は特に現在身に残っているものは何もありません。3年目に1年間坂出市立病院で勤務し、その後は4年間大学院で研究生活を行っておりました。大学院に進むにあたっては、同級生がこの時期には急激に仕事を覚えて能力がつく時期でもあり、他と比べても臨床から取り残されるのではと非常に不安に感じていたことを覚えています。当科の方針として大学院生は外勤以外には病棟業務などもなく、研究に没頭できる環境であり、非常にありがたいものでした。大きな声では言えませんが電気泳動の待ち時間にプールで2時間泳いだり、天気のいい日は陽気に誘われて昼から帰ったりなどもしており、学生時代に夢見ていた、金も時間もあるという生活を送っておりました(もちろんただのクズではなく研究結果をあげて論文も数本書いており、きちんと仕事をこなした上での話です)。そのため卒業前には社会復帰できるか非常に不安に感じうつ気味でしたが、その後も何とか臨床家としてやっていけております。その後3年間は大学病院で臨床の遅れを取り戻し、平成24年から2年間三豊総合病院での勤務を経て、平成26年2月からは現職の香川大学耳鼻咽喉科の助教として勤務しております。
私の経歴はおそらく香川大学耳鼻咽喉科の典型的なものだと思います。大学院は個人の選択になりますが、よその科のように片手間で研究と臨床を中途半端に両方やるというのは私の経験上からはやめた方がよいように思います。指導内容や方針がどうであれ、結局のところ、やる人間はやるし、やらない人間はやらないので、将来的にものになるかどうかというのは自分自身の資質によるものだという風にも15年ほどやってきて思うようになりました。とはいいますが現在の当科での臨床研修はとても素晴らしいものだと今現在感じており、他大学と比べても明らかに優秀な後輩が育っています。そのため私自身も研鑽を重ねなければ寝首をかかれて放り出されそうな危機感を感じており、毎日頑張って臨床・研究に邁進しておるところであります。
最後になりますが耳鼻咽喉科医は希少価値の高い医師と言えます。学生はよく、カメラやカテができるようになりたいということをいいますが(私もそのように考えておりました)、そのような検査ができる医師というのは香川県内だけでも何百人と存在します。一方耳鼻科の手技・手術を本当に専門性をもって行える医師というのは、耳・頭頚部手術や私の専門の鼻領域のものにしても県内で数人しかいないのが現状であり、特定の部門のスペシャリストとして台頭しやすい状況であるといえます。これから進路を決めようという人はそのあたりのこともよく考えて決めていただければよいかと思います。

松原 あい

卒業してからはや19年、研修医時代、妊娠出産、海外生活、復帰と研究と、やや変則的な経歴を持つ私ですが、テーマは「子育てしながら、自分の興味のあることでいいから仕事もがんばる」といったところでしょうか。

まず、卒後は一年間の大学での研修後、坂出市立病院で勤務しました。この2年間に耳鼻科医としての基本的なイロハをまさに手取り足取り教えていただきました。今思えば、私だったら研修医の先生にさせられないかも・・と思うような経験もあり、大変貴重でかつ楽しい期間でした。この時期に結婚もし、公私ともに充実していた時期だと思います。
その後2年間大川総合病院(現さぬき市民病院)で勤務後、再び大学勤務に戻り無事専門医試験に合格しました。そして第一子を妊娠、妊娠中も元気に働けると思っていたのですが、早々に妊娠悪阻で入院、前触れなく勤務に1か月近くも穴をあけてしまいました。もともと人数が少ない医局で余裕がないのに、代診を立てていただいたり病棟患者さんを割り振っていただいたり、医局の先生方には本当にご迷惑をおかけしました。その後の妊娠期間も業務を軽減してもらえ、アットホームな医局ならではのいろいろな気遣いをいただけたと思っています。
長女を無事出産後は一年間の育休をいただきました。その当時は育休が終わればフルタイムで復帰するものだと思っていたので、準備段階として週1~2回の外勤から慣らさせてもらっていたところ、主人のスウェーデン留学が決定しました。ブランクが長引く一抹の不安はあったものの、海外生活のまたとない機会、喜んで渡瑞しました。休んでいるうちにと、ストックホルムでは次女を出産。産褥期間は夫も1ヶ月の育休をラボからいただいて(出勤したら追い返されたそうです)、長女の保育園の送迎から家事一般をすべてこなしてくれました。日本でも男性の育児休暇取得が進めばいいのになあと心から思いました。

3年間のストックホルム生活は、自分のキャリアを考え直す大きなきっかけを与えてくれました。一つ目は、研究してみたいという好奇心のめばえです。ストックホルムでは留学研究者専用の大きなアパートメントに住んでいたため、多くの先生方と家族ぐるみで親しくなることができました。仲良くなっていろいろ話を聞いているうちに、まったく興味のなかった研究に目が向くようになり、勉強してみたいと思うようになったのです(夫は「留学したら俺じゃなくておまえが研究者になった」と揶揄しますが)。
二つ目は、子育てをしながらうまく仕事をするという価値観です。北欧の働き方は日本よりはるかに家族・子供優先で(ある意味休暇優先とまで言える)、ワーク・ライフバランスを重視しています。今でこそ日本も長時間労働の見直しが謳われていますが、10年まえの日本の「子供がいようがいないがバリバリ働くのが美徳」という考え方は、彼らにとってただの「仕事しかできない人」だったのは衝撃でした。
しかし悲しいかな、私は日本人、1年間の育休の上に3年の海外生活で仕事に復帰できるのか、小さい二人の子供の育児と両立できるのか、焦りと不安を抱えての帰国となりました。

帰国後は医局にお願いして、リハビリ期間として週一回から徐々に非常勤に出るように配慮して頂けました。山本先生がおられるさぬき市民病院に行かせてもらい、忘れていたことや4年間に変わった事などをすぐに気楽に聞くことができて、不安まみれな復帰の第一歩を支えてくださいました。また、子供の急病の際は「あいちゃん、もう外来は大丈夫だから早く迎えに行ってあげて」と送り出してくださり、涙が出るほどありがたく感謝しきりでした。
また、当時医局には幸運なことに3人の大学院生がおり、日々研究に精を出していました。帰国前から狙っていた私は、これもまた医局にお願いして、うまく下っ端で加えてもらうことができ、外勤の合間にラボに出入りするようになりました。全く知識も経験もないところからだったのですが、実験の基本手技を一から教えてもらい、本当にラッキーだったと思います。
一人でなんとか実験ができるようになったら研究のおもしろさが少しずつ実感できます。うまく結果が出て論文が書けると知的好奇心がさらに高まる、また実験する、という過程を繰り返すうちに、博士号取得後も継続したいと思うようになりました。また、子育てを(スウェーデン人ほどではないが)したい私には、自分で計画を立てて実験時間を配分できる研究の方が肌に合っています(ネズミは子供を優先したからといって文句は言いませんから)。臨床でフルタイム復帰してはどうかとの打診も何回か頂いたのですが、わがままを言って現在も研究員として耳鼻科のラボで研究を継続させてもらっています。

思えばここまで、自分一人の力では到底仕事と家庭の両立はできなかったと思います(今でもあまりできていませんが)。常に医局を含め、周りの先生方、家族、スタッフ、友人たちやいろんな方々のサポートなしでは不可能でした。耳鼻科医局は少人数ですが、その分お互いが考えていることがわかりやすく、コミュニケーションが取りやすいのは、言葉を換えれば、お互いの意思を尊重しつつ自分のやりたいことを追求できるいい環境ということだと思います。私はちょっと通常例ではなく、人に自慢できるような経歴の持ち主では到底ないのですが、そんな変わった考え方の人間でも受け止めていろんな機会を与えてくれました。若い先生方にも是非耳鼻科に入局して、自分のしたいことを見つけ、キャリアを自分なりに深めていってほしいと思います。